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古九谷(九谷古窯)

石川県の地図

九谷焼の名称は、最初に焼成された場所が加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町九谷) であることから、その地名をとって「九谷焼」と名付けられたといわれています。
九谷焼が石川県で最初に焼かれたのは、江戸時代前期の明暦年間(1655~1658)頃とされています。 陶工後藤才次郎が有田で製陶法を学び、現在の山中町の九谷で焼いたのが最初で、約40年間で一時廃絶 しています。この約40年間の作品が特に「古九谷」と呼ばれているものです。
古九谷は17世紀以降、日本で作られた色絵磁器の中でも、有田の柿右衛門、古伊万里、色鍋島や京都の仁清などと共に高く評価されています。

古九谷花鳥の文様

その題材の多くは、ほぼ花鳥、山水、風景の図柄で統一されており、そこには南蛮の影響とも 受け取れる独自の特徴や表情を見出すことができます。当時全盛を誇っていた京都狩野派の画風が多く、 また大和絵的なものや中国の影響を受けたもの、オランダの影響を受けたと思われるものなど、 実にさまざまです。

古九谷の余りにもすばらしい出来栄えは、元録年間(1688-1704)に幕府の禁制品と疑われました。 当時の外様大名取り潰し政策の中、加賀の片田舎の国でこんなすばらしい焼き物が、作れるはずがなく、 中国よりの密貿易品ではないかと嫌疑が掛ったようです。
密貿易との嫌疑は重大な国禁であり、大大名といえど藩存立の危機となります。そのためか突然古九谷の 窯は閉ざされ、文献資料は完全に廃棄されたため、以降の研究はすべて推測の域でしかありません。

加賀藩三代藩主前田利常の像(小松市芦城公園)

加賀藩三代藩主前田利常(1593-1658)は、武治の加賀藩を文化の加賀藩に政策転換をさせた名君であります。
その文化政策が百万石の財力と融合して、当時の加賀は当代一流の文化人の交流の場として栄えたのです。
絵画、漆工芸、金工、能、茶道等の当時の一流の文化人を江戸や京都より招き、利常は彼らと共に能や 茶を楽しみ、高録を与えて長期滞在させ藩のの文化水準の高揚に勤めたのです。

古九谷の事業を企画したのは、加賀前田藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主であり利常公の息子、前田利治で 推進したのは二代利明です。
利常は当時海外よりもたらされる貴重な文物を収集するため、肥前平戸や長崎に加賀藩の家臣を常駐させ、 織物類や陶磁器類を買い集めています。また寛永17年(1640)以降には、東インド会社を通じオランダの デルフトへ陶磁器を注文しています。

色絵鶴かるた文平鉢(石川県立美術館)

 この頃、肥前鍋島藩では有田で磁器の量産化に成功して国内外へ移出し、事業として藩の経済に利益を もたらしていました。
 この状況を見た加賀藩は、有田以外では未だなされていない磁器生産を寛永16年(1639)に分藩独立した 大聖寺藩の産業として実行させました。経済基盤の一助としての役割をさせようとの加賀藩の配慮が、 古九谷窯の開窯になったと思われます。

しかしこの「古九谷」は事業として成功することなく、約40年で疑惑のため廃窯となります。

以降80年間、九谷焼は空白のときが続きます。江戸時代後期、文化3年(1806)九谷焼は春日山窯にて 復興します。この窯を指導したのが京都の青木木米です。
 以降若杉窯、吉田屋窯、飯田屋窯、永楽窯、小野窯、庄三窯と次々に開窯します。 そこではより多彩な色絵の作風が創作され、色絵の技法については、吉田屋窯において古九谷の復興を 目標に研さんし、京都よりの永楽和全の金欄手九谷や独自の境地の庄三風の色絵と発展して現在の九谷焼の 基礎を作りました。


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